『毒入りチョコレート事件』アンソニー・バークレー
一つの事件に6人がそれぞれ「これこそが真実」だと思える解決を提示する。
でもその後、論理を崩す証拠が後付けで出てきてひっくり返される。
ものごとには「多様な解釈の仕方がある」し「いくらでも恣意的にコントロールできる」ことを示したお話です。
技巧的な論証は、ほか技巧的なものがすべてそうであるように、ただ選択の問題です。何を話し、何をいい残すかを心得てさえいれば、どんなことでも好きなように、しかも充分に説得力をもって、論証することができるのですよ。
それこそ「解釈による」けれど、私はラストでも「正解」が示されたわけではないと思っています。「唯一解などあり得ない」というのが「正解」なのでしょう。
ミステリであれば、著者がばらまいた「怪しげなポイント」が、回収されれば「伏線」になるし、回収されなければ「ミスリード」で終わります。バランスが崩れていなければ、いくらでも恣意的にコントロールできるものなのでしょう。
実生活でも、起こった出来事への解釈は無限に広げられるし「絶対唯一の真実」がある訳じゃない。
頭の良い人ほど「因果関係」がはっきりした展開を好みますが、現実世界の多くのことは複雑な要素が関わり、一つの原因が一つの結果を生むということはあり得ません。それでも人は「自分に理解できるストーリー」に落とし込もうとします。
「分からない」ことは人を不安にさせる。降りかかる危険がみえなければ身を守ることができないからでしょう。
ものごとを「因果関係」で捉えようとすることから逃れることはできないけれど、それでも「別の結論でも矛盾は生じないのではないか」と立ち止まる冷静さを持ちたいものです。