毎日一冊! Kennie の読書日記

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生きて死ぬ私

脳科学者 茂木健一郎氏のエッセイです。

意識とはニューロンの発火に過ぎないのか、

だとしたら認識のもとになるクオリアとは何なのか、

といった考察から始まり、

茂木氏の個人的経験も含めた持論を展開しています。

 

【タイトル】

生きて死ぬ私

 

【作者】

茂木健一郎

 

【あらすじ・概要】

エッセイ形式の書籍なので

印象に残った部分だけを抜き出す。

 

・「人間の心はニューロンの発火に過ぎない」のなら

 「物質である脳になぜ心という精神現象が宿るのか」

 

・「哲学=ファッションショー」である。

 最先端のファッションの一部が「普通」になるように

 当初は異端だった観念がやがて普通になる。

 中世にビートルズの「In My Life」のような

 現世的な人生回顧はあり得なかった。

 

・私の生死は私を構成する分子や原子には意味がない。

 物質は日々入れ替り、分子や原子は私を離れても存在する。

 私というのは私の関係性の歴史である。

 

・人は時間を「流れ」として認識するが

 時間の流れには「今」しかない。

 今の積み重ねが時間の経過に繋がっていく。

 

・意識の変性状態(夢や薬物の影響下など)を

 論じないのは「脳と心のモデル」としては片手落ち。

 

・「ブロードの制限バブル説」では

 「人間は空間時間を超えてすべてのものを認識できるが

  それを混乱なく扱うため制限しているのが脳の機能」

 であり、認識は引き算の過程だとする。

 

・この世界は「選ばれなかった可能性が死んだ世界」で

 無意識は生まれなかった世界に繋がっているかもしれない。

 

・人間の感覚が「赤の赤さ」「光のまぶしさ」といった

 生々しい質感(クオリア)を伴うのは何故か。

 これは脳科学の課題であり、宗教的な問題である。

 

・宗教の体系性はフィクションであり

 正月に神社に行き、教会で結婚式を挙げ、

 仏式で葬儀をおこなうが

 初詣には「決意、祈り」

 結婚には「近い、絆」

 葬儀には「解脱や極楽浄土」といったイメージがあり

 それぞれことなる宗教的感情を

 適したフォーマットで表現している。

 不自然なやり方ではない。

 

・世界を変えるような天才はめったに出ないが

 中でも宗教的天才はごくまれにしか生まれない。

 協議の中心として「愛」を唱えたキリストや

 有限の世界に生きること自体に苦しみの原因を見出し

 そこからの解放を救いとしたブッダは

 宗教的な天才であった。

 

 

【感想・考察】

物質としての脳、物理現象としてのニューロンの発火と

「心・意識」の間には何があるのだろうか。

 

「肉体の反応を記憶しやすくするため、

後付けでストーリー化することで生まれたのが意識」

とする説にも説得力はあるが

であれば「個体の生存戦略と矛盾する快不快の感情」は

何故あり得るのか。

 

「音楽を聴いて心地よい」と思うのは

音のパターンという外界の刺激に対応する

「生々しい感性」があるからで

それはどこに宿っているのか。

 

いつか、脳と意識の関係について根源的な解釈がなされ、

それが「当たり前」として広まるときが来るのだろうか。

 

 

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