毎日一冊! Kennie の読書日記

面白い本をガンガン紹介していきます!!

『いまさら翼といわれても』 米澤穂信

 「ふたりの距離の概算」に続く古典部シリーズ第6弾です。

奉太郎と える が少しずつ成長しています。

 

タイトル

いまさら翼といわれても

「古典部」シリーズ

 

作者

米澤穂信

 

 

あらすじ・概要

高校2年になった古典部メンバーたちの話。6つの短編集。

 

  • 箱の中の欠落

 奉太郎は里志から、生徒会選挙で起きた不思議な事件の話を聞く。

投票の数が全校生徒の数を上回っていたという。選挙の立会人が来る前に投票箱を開けてしまった1年生を責める選管委員長に憤りを覚えた里志。奉太郎は表が紛れ込んだ過程を推理する。

 

  • 鏡には映らない

摩耶花は中学時代の友人が奉太郎の悪口を言うのを聞いた。

中学の卒業制作として鏡のフレームを作ったが、奉太郎は自分の担当部分で明らかな手抜きをし、全体のデザインを壊してしまった。

奉太郎は「細かいことは忘れた」というが、摩耶花は必ず何かの事情があったはずだと考えた。

 

  • 連峰は晴れているか

「ヘリコプターが好きだ」と言っていた中学時代の先生のことが話題に上がった。

その発言に違和感を覚えた奉太郎は当時の出来事を調べ、先生の真意を探る。 

 

  • わたしたちの伝説の一冊

摩耶花の属する漫画研究会は、作品を読んで楽しみたいという勢力と、自分で漫画を描きたいという勢力に別れ分裂していた。

摩耶花自身は、雑誌への投稿を繰り返すなど「漫画を描きたい」という気持ちが強かったが、部活内部での対立に心を痛めていた。

摩耶花は「漫画を描きたい派」の同級生から一緒に同人誌を作ることを勧められ同意したが、勝手な行動を「読みたいだけ派」に咎められる。同人誌が完成すれば「描きたい派」、できなければ「読みたい派」が研究会残るということになってしまう。

そんな中、摩耶花がネームを描いていたノートを盗まれてしまう。誰が何の目的で彼女のノートを盗んだのか。

 

  • 長い休日

「やらなくていいことなら、やらない。やらなければならないことなら手短に」をモットーとする奉太郎。

奉太郎はえると神社の掃除をしながら、そう考えるに至った小学生の頃の出来事を打ち明ける。

 

  • いまさら翼といわれても

 合唱祭でソロパートを受け持っていた える が、本番直前になっても会場に現れない。摩耶花から連絡を受けた奉太郎は える を探しにいく。

奉太郎は 地方の名家の跡取りとして育てられてきた える の苦悩を知る。

 

感想・考察

 奉太郎は小学生の頃の出来事から「付け込まれて利用されるのはイヤだ」と感じ、省エネな生き方を志すようになっていた。でもその根底には「人を助けたい」という思いが残っているのがみえる。

古典部の仲間たちや、特に える の影響で奉太郎の心が少しずつ溶けている様子が見て取れる。「長い休日」は終わろうとしているのだろう。

一方、える の人生も重たい。高校生ながら様々な責任を抱えて生きてきた。自由のない、翼を持てない生き方は重苦しい。あるいは、いまさら翼といわれても困惑してしまうのだろう。

 

日常系ミステリとしての謎解きも面白いが、古典部メンバーの成長を描くジュブナイルとして素晴らしい作品だと思う。

「サザエさん」とか「コナン」くらい、作中の時間と現実時間の差が広がってきているけれど、ちゃんと学年が上がり成長しているので、先の展開を期待したい。 

 

 

『14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト』 飲茶

飲茶さんの「哲学的な何か、あと科学とか」が大変面白く、コメントでも紹介いただいたこちらの本も読んでみました。

 

タイトルに「14歳からの」とあるけれど、14歳向けの本という訳ではありません。哲学は14歳くらいで経験する「中二病」が入った「極端で幼稚な発想」から生まれているのだ、という主張です。

合理主義から実存主義、構造主義、ポスト構造主義という流れを単純化して解説してくれます。本書もものすごく分かりやすい説明で感服しました。

 

タイトル

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

作者

飲茶

 

あらすじ・概要

近代以降の哲学の流れを

合理主義→実存主事→構造主義→ポスト構造主義として、主な哲学者の思想を中心に説明する。

 

14歳からの哲学

  • ニーチェ

14歳的な哲学の代表としてニーチェの紹介から始まる。

ニーチェは宗教が力を失い「ニヒリズム」が広がると考え、結果「生きる喜び」が失われてしまうことを懸念する。

「ニヒリズム」の極端な形として「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すだけ)を想定し、「もう一度味わいたいと思えるような『今』を見出すこと」でそれを克服することを提唱した。

 

合理主義の哲学

  • デカルト

ルネサンスを機に全てにおいて神を根拠に説明されていた世界から、「理屈に合うこと」を大切にしようとする「合理主義」への流れが生まれた。

「人間の認識は本当に合理的と言えるのか」という疑問から認識論が生まれた。デカルトは人間の認識を敢えて徹底的に疑ってみることで人間の認識の正しさを証明しようとする。

・全てを疑っても、疑っている主体「私」が存在することは間違いない。

・不完全な「私」が完全なる神を知ることはできない。

・神は「私」が考え出したものではなく、外部から与えられたもの。

・なので「神」は存在する。

・完璧な存在である神は合理的に世界を作っているはず。

・なので人間が明晰な状態で認識したことは正しい。

という理論で人間の認識の正しさを証明した。

 

  • ヒューム

大陸の合理諭が演繹法を重視するのに対し、ヒュームらイギリスの経験論派は帰納法を重視した。

ヒュームは神すら「複合観念」として経験から生み出されたものだと考える。そして「私とは、知覚の束である」と主張し、経験不可能なものについても合理的に考えていけば、正しい知識に辿り着けるという楽観的な見方を否定した。

 

  • カント

 ヒュームは全てのものは「経験から生み出された観念」だとし合理諭を否定した。

これに対しカントは「経験するための前提条件として『時間と空間という観念』が人間の中に最初から存在している」とした。「世界(モノ自体)」を「精神」が読み取り、経験可能な「時間と空間」という形式に変換すると考える。

人間に共通な認識がある以上演繹法は成立するが、それは同じ認識形式を持った人間の中だけの真理であるとした。

合理諭を復活させたが「モノ自体」は絶対に知ることができず、「人間の思考形式の範囲外のもの」も知ることができないという限界も示した。

 

  • ヘーゲル

 ヘーゲルは「人間の認識できるものだけが世界」だとし、現実的なものは理性的であると考えた。

「弁証法」を提言し人間の精神は矛盾を高次元で解決しながら徐々に成長していくものだとし、究極的には人間は万能の存在になり得ると主張した。

 

実存主義の哲学

  • キルケゴール

カントらは、「世界を私が認識している」という、私と世界の二元論をベースとし、ヘーゲルは「全てが私の精神現象だ」とい一元論的世界観を打ち出した。

これに対し実存主義では「現実に存在するものを大切にしよう」と考えた。

例えばリンゴが「赤くて丸い」というのは、リンゴの「本質」である。科学はこの普遍的な本質を探し出すことを目指している。これに対し個々の本質を大切にしようと考えるのが実存主義。

キルケゴールは、人間一人一人の内面を見つめることで絶望に至るが「可能性」を

信じることで乗り越えていくべきだと考えた。

 

  • サルトル

 実存主義では人間は特別で本質よりも現実存在が先に立つと考えたが、サルトルはこれを人間以外にも広げて考えた。モノであっても使用目的などの本質が先立つわけではなく、人間が現実存在に意味を貼り付けただけだとした。

「全てのものに『本質』があるわけではない。だからこそ私たちは自由に『意味=本質』を与えることができる」と考えた。

 

 

構造主義の哲学

  • レヴィ-ストロース

 実存主義では人間を特別な存在で、意味を作り出すことができると考えた。これに対し構造主義では「世界の隠された構造を無意識に選び取っている」のだとし、人間が個人個人の意思で決断しているわけではないとした。

レヴィ-ストロースは未開文化の調査から隠された構造を発見し、個別の減少を見るのではなく、幅広く多くのものを見て興津する構造を探すことが大事だと主張した。

 

  • ウィトゲンシュタイン

構造主義の学者たちは 「言語=思考」と考え、言語の構造を分析した。

ウィトゲンシュタインは

・言葉は事実と対応していなければ無意味。

・愛や神などが存在するかどうかは言語的には語れない。

・語れないものについて語った哲学は無意味。

だとした。

 

また後には

・言葉の意味は使用状況で変わる。

・言葉とは文化圏によりたまたま決まった慣習的なものに過ぎない。

とし、「言葉自体は無根拠なルールの集合に過ぎない以上、それをどれだけ重ねても普遍的で客観的な意味にはたどり着けない」と考えた。

 

ポスト構造主義の哲学

  • デリダ

言語の構造を分析すると、構造主義もそれ以前の哲学も破綻してしまった。 また何を構造とするかは「さじ加減次第」ということが理解されていく。

ここから構造主義は勢いを失うが、これに代わる大きな流れは未だ出ていない。

 

デリダは文章の意味を一つに決めることはできず、読み手がそれぞれに解釈するしかないとした。物事を並べても本質を知ることはできないので、カチコチの理論から脱することを提言、一つの減少に対する解釈は複数あっていいし、有用なら全部正解でOKだとした。

 

  • ボードリヤール

ボードリヤールは「資本主義社会は決して破綻しない自己完結したシステム」だとした。物理的なモノの生産にかかるコストが下がり、今では「記号」が経済を回している。「記号」は無限に生み出すことができる。その中では哲学も記号の一つとなっている。

 

これからの哲学

著者が次時代の哲学テーマの一つとして挙げるのが「働かない社会を作るのにはどうすればよいか」ということ。

生産効率が上がり生きるために必要なモノの生産コストが下がることで、無理にでも意味を作り経済を回しているのが現代。「仕事しなくてもいいんじゃん」という論理があり得る。

現代の価値観とは分かり合えないが「言葉が通じない」ところから新しい哲学が生まれる。

 

感想・考察

宗教権威への盲従から合理主義へ。

合理主義が「本質の追求」に傾いたことへの反動として、個々の現実存在を重視する実存主義へ。

人間が実存に意味を与えているという解釈に対し、無意識に構造に従っているとする構造主義へ。

構造を突き詰めると結局全てが無意味になってしまうというポスト構造主義へ。

大まかな流れの中で説明されるので分かりやすい。色々と関連書を読んでみたいと思う。

 

また飲茶氏は冗談半分に「ニートの闘い」をテーマに上げているが、「働かなくてもいい社会」という思想には全面的に賛成する。

 

生きるために必要なモノを作る生産コストは下がり続けている。そのため労働者の必要が減ってしまえば失業者が増え、富の分配が行われなくなるから、無理にでも仕事を作り経済を回しているのがケインズ以降の資本主義だ。

 

今後ロボット技術やAIがさらの進歩すれば、生産コストを更に下げ、労働者の必要数もさらに減り、さらに無理やりな仕事が作られるかもしれない。

 

働くことが楽しい人にとってはそれでいいのかもしれない。社会へ貢献する感覚が大事なのかもしれない。だが、もし本当は必要ないというのであれば、やりたくもない仕事を、ただ生きるために続けたくはないと思う人もいるだろう。

 

現在、富を分配する方法は「労働力を売る」か「資本を運用する」がほとんどだが、生産コストが下がり続けるのであれば「富の配分」を考え直す必要があるのではないだろうか。例えば、ミニマムインカムとして最低限の収入を保証することかもしれないし、無償でシェアする経済の拡大かもしれない。

 

働きたくない。。。

 

 

『雨の降る日は学校に行かない』 相沢沙呼

相沢さんは「ロートケプシェン、こっちにおいで」とか「マツリカシリーズ」のように、日常系ミステリを背景に、学校での生き辛さや、女子制服の素晴らしさを描く作品に傑作が多いです。

本作はミステリ要素はなく、制服要素も薄めで、中学校でのいじめやスクールカーストを真正面から扱った重たい短編集ですが、相沢さんの「人の優しさを信頼する心」が滲み出て、救いのある話になっています。

 

タイトル

雨の降る日は学校に行かない

 

作者

相沢沙呼

 

あらすじ・概要

学校での生き辛さと闘う女子中学生たちの話。

 

  • ねぇ、卵の殻が付いている

中学二年生のナツは登校してもクラスに行けず、ずっと保健室で過ごし、もう一人の「保健室登校」の仲間であるサエと仲良くなっていった。だがサエが教室に戻ろうとすることを知り「裏切り者」と罵ってしまう。

保健室の長谷部先生はナツに「どんな生き物も生きていれば大きくなる。部屋にも家にも学校にも、閉じこもってられなくなる」と言った。

 

  • 好きな人のいない教室

中学二年生の森川は恋愛話に夢中になるクラスの女子たちと馴染めずにいた。地味でオタクっぽい岸田との仲を囃し立てられ不快に感じる森川だったが、彼が漫画を描くことに本気で取り組んでいることを知る。

岸田は「自分に嘘をついてまで、みんなと合わせたって、きっとなんの解決にもならない」と森川に言った。

 

  • 死にたいノート

藤崎はノートに、実際にはないいじめや家庭問題で苦しみ自殺することを仄めかす「死にたい理由」を書き込んでいたが、あるときそのノートを無くしてしまう。

ノートを拾った同級生の河田さんは、ノートの内容を見て持ち主が苦しんでいることを心配する。自分の書いたノートだと言い出せない藤崎は河田たちと一緒にノートの持ち主を探し出すことになる。

藤崎は河田に探すのを止めようと言うが、河田は書いた人が苦しんでいることは間違いないと感じていた。

「だって、死にたいって、生きたいってことだよ。しあわせになりたいってことだよ」と言う。

 

  • プリーツ・カースト

イケてる子は制服のスカートが短い、ひざ下まであるようなスカートをはいているのは鈍くさいと、中学二年生のエリは感じていた。

小学校の頃の友人だった真由は「イケてない」側で、エリとは疎遠になっていき、エリも真由をからかうグループに同調していた。

エリは真由を笑う「レベルの高い女子」たちに違和感を抱き始める。

 

  • 放課後のピンと合わせ

中学二年生のしおりは、際どい写真をネットにアップし賞賛を得ることに快感を覚えていた。ある日誰もいない教室で撮影しているところを先生に見つかるが、先生は「写真に興味がある」のだと勘違いする。

先生から一眼レフのカメラを借りたしおりは写真の面白さを知り、写真を通じて距離を感じていたクラスメートたちと打ち解けることができるようになった。

 

  • 雨の降る日は学校に行かない

さっちゃんは些細な理由でクラスの中心グループから外され、いじめを受けていた。担任の先生も「自分から周囲に溶け込む努力をしなければだめだ」と彼女を叱責する。やがていじめがエスカレートし、さっちゃん は学校に行くことができなくなる。

さっちゃんの家に保健室の先生が訪れ「勉強は未来の可能性のためにするもの。でも学校が全てじゃない。学ぶ方法も人と繋がる方法も学校の外にたくさんある。どんな生き方を選ぶのも自由だよ」と伝える。

 

感想・考察

中学生くらいの年頃では、学校生活が上手くいかないことは本当に辛い。

それでも相沢さんの作品には「人への信頼」が根本にあるが感じられる。読んでいて救われる気分になる。

 

漫画や写真など本当に好きなことを見付け、周囲におもねるよりも大切なものを見つけた人がいるかもしれない。

「苦手な人」だと感じていた人にも、気が付いていない別の一面があって、本当は一緒にやっていくことができるかもしれない。

学校は勉強や人間関係を学ぶ場だけれど、それは学校以外でも学ぶことができるのかもしれない。

最終話のいじめは苛烈で、そこから逃げざるを得ない さっちゃん の悔しさが伝わるが、最後に明かされるループで彼女の闘いを知り、胸が熱くなる。

 

ミステリ要素無しでも素晴らしい作品だった。

 

 

『哲学的な何か、あと科学とか』 飲茶

「科学哲学史」というと難しそうですが、驚くほど分かりやすい本でした。

 

「正しいとは何か」を科学的に追求し哲学的な問題にぶつかります。デカルト数百年におよんで追求されてきている流れを説明し、新たな科学的発見などがどのように影響しているのかを本当に分かりやすく説明しています。

 

こういう分かりやすい本を読むと、様々な思想や論理の位置づけが把握できるので、今後他の知識を得るのにも役に立つのだと思います。

 

タイトル

哲学的な何か、あと科学とか

 

作者

飲茶

 

あらすじ・概要

哲学的な何か

  • 不完全性定理

「ある矛盾のない理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能が明大が必ず存在する」という定理。「私はウソつきです」というような「自己言及のパラドックス」など。

「論理的に突き詰め、矛盾を解決していけば、いつかは真理に辿り着ける」と考えを否定した。

 

  • 公理

たとえばユークリッド幾何学では「平行線は交わらない」ことは証明の必要のない「公理」だとしている。そういった公理をベースに理論体系が作り出されてきた。

だが非ユークリッド幾何学が「平行線も交わる」としも矛盾なく理論体系を築くことが発見された。

「公理」は、感覚的には自明のものであり、そこから矛盾ない理論体系を築けるから正しいと考えられてきたが「適当に公理を決めても、無矛盾な理論体系は作れる」ことが証明された。

これは「あらゆる理論体系は絶対的な真実の記述ではなく、一定の公理から論理的思考の蓄積で作らられた構築物」であるとみなされるようになった。

 

  • 我思う、ゆえに我在り

デカルトは全てを疑っても「疑っている主体」である何者かが存在することは絶対的な真実だとした。

 

  • 論理

論理的思考には必ず「飛躍」と「矛盾」がある。

「A=Bで、B=Cなら A=C」 という論理にしても、AとBが完全に同じものであれば、A=Aの言い換えに過ぎず意味はない。厳密には異なるAとBを同じとみなす飛躍がある。

 

  • イデア論

例えば完璧な三角形を書くことは原理的に不可能だが、思い浮かべることはできる。「観念的な三角形」があり、それを基に三角形っぽいものを三角形とみなしているというのがイデア論。

 

  • 物質

「自転車」は物質か。見たり触ったりできるから物質だと思うが、サドルやタイヤがなくなれば、それは自転車ではなくなる。全体として機能するシステムに名付けられたのが「自転車」だ。

そう考えると「鉄」も分子を一つ失えば、鉄として機能しない。そう考えると鉄として機能するシステムを名付けたと考えられる。

こう考えると全てのものは「その機能」が名付けられたものに過ぎず物質そのものの名ではない。

 

  • 道具主義

「観念はいかに精密で無矛盾でも仮説。その価値は有効性にある」とするのが道具主義。

 

あと科学とか

  • 相対性理論

音の速度は、動いて観測すると変化するが、光の速度は止まっても動いても一定。であれば「距離」と「時間」の方が変化すると考えたのが特殊相対性理論。

 

  • カオス理論

「どれほど完璧な理論ができても未来は予測できない」とする。システムが複雑になればなるほど、初期値の小さな違いが大きな結果の違いとなる。

観測値には絶対に誤差が含まれ、対象が複雑になればなるほど誤差の影響が結果に大きく表れるため、複雑な事柄を予測することはできない。

 

  • エントロピー増大の法則

「自然界では常に秩序から無秩序に進む」とする理論。

例えば人間が片付ければ部屋は秩序を取り戻すが、人間の活動自体が食物のエネルギーか等でエントロピーを増大させているので、全体として見ればエントロピーは増大している。

 

  • 散逸構造論

「すごい偶然」でエントロピーが減少することはあり得る。すごい偶然による小さな揺らぎがポジティブフィードバックと通して自己組織化することはあり得るという考え。

 

  • 4つの力

「力」というのは相互作用。一方的なものではない。

4つの力は「重力」「電磁気力」「弱い力」「強い力」。これを統一する理論が探されている。

 

  • 不確定性原理

「ある粒子の運動量と位置を同時に正確に知りことは原理的に不可能」

位置の正確性が増せば、運動量の正確性は落ちる。

 

 

量子力学とか

  • 波動と粒子の2重性

光には干渉縞ができるという波としての性質と、光電現象という粒子としての性質を併せ持つ。光は波でありかつ粒子であると考えられている。

光だけでなく、全ての物質で粒子と波の性質を併せ持つ考えることができる。

 

  • 2重スリット実験

大量電子を2つのスリットを通して打ち出すと、干渉縞が見られる。

電子1つだけを打ち出すと、左右どちらかのスリットを通って一点に着地する。

ところが1つの電子の打ち出しを繰り返すと、着地点の傾向に干渉縞が見られる。

スリット通過時点では左右の一方しか通っていない電子が、もう一方からの影響を受けたように見えるのは何故か、というのが2重スリット問題。

 

  • コペンハーゲン解釈

「観測する前は波だが、観測された瞬間に粒子になる」という解釈。スリットを通過した時点では波なので、位置の可能性としては波の干渉を受けるが、着地し観測可能となった時点では粒子になっていると考える。

シュレディンガーによる波動方程式で確率的に計算することができる。

 

  • 多世界解釈

「電子が確立として重なり合っている状態なら、観測者の人間も確立として重なり合っていると考えられるのでは」という解釈。こういう観測をした自分とは別の観測結果を得た自分も確率的には存在すると考える。

コペンハーゲン解釈と同じく結果に矛盾はないが「実際に役に立たない」ので主流となっていない。

 

  • パイロット解釈

「電子が飛ぶ前に、位置をガイドする波が出ている」とする理論。イメージとして理解しやすく理論的に矛盾はないが、これも「計算が難しく役に立たない」ので主流となってはいない。

 

  • 解釈問題

コペンハーゲン解釈、多世界解釈、パイロット解釈のどれも正しいとは言えない。観測して確かめることができない世界の話なので、結果としてツジツマの合うものが採用されているだけ。どれが役に立つかという有用が問題になっているだけで、正しさという意味では、例えば「見えない小人さんが運んでる」解釈と同じ。

 

科学哲学史とか

  • 帰納主義

「黒いカラスをたくさん見たから、カラスは黒いものだ」とするのが帰納主義。「科学は観察という確かな事実を元にして、事実と矛盾しないように構築されていくべき」だという考え方。ただ都合の良いデータだけを集めることで、様々な理論を正当化することも可能となる。

 

  • 論理実証主義

あらゆる理論は「○○は△△である」という基本的な命題と、「かつ」「または」「ならば」という論理関係で表現される。

厳密に論理関係を実証していくことで正しさを評価していくのが「論理実証主義」。ただしこれを厳密にやりすぎると、全ての理論は正しいとは言えないと判断されることになる。

 

  • 反証主義

「反証可能なリスクを負うものが科学である」と考える。

「今まで見たカラスは全部黒かった。だからカラスは黒い」というのは「黒くないカラス」が発見されれば反証される。だからこの宣言は科学的だと言える。

ただ間違っている理論を間違っているということも確実にはできない。

どこかで「疑うことを止める」判断をする必要がある。

 

結局は「とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」という決断によってしか成り立たないのが科学理論。

 

 

もっと哲学的な何か

  • 人工知能の心

自分以外の人間が自分と同じ心を持っているかを確かめることは原理的にできない。それは人工知能でも宇宙人でも変わらない。

「人工知能に心があるか」という問い自体がナンセンス。

 

  • クオリア

自分が認識している「赤」と他の人が感じている「赤」が同じだと証明することはできない。自分にとっての「青」が誰かにとっても「赤」であっても矛盾なく成り立つ。

この色を「赤」と感じる質感「クオリア」がどこから来たのかは、現代科学では全く分かっていない。

 

  • ゾンビ問題

外見的に人間と同じ反応をするが心のない「哲学的ゾンビ」を見分けることはできない。意識や主体的体験はなくても世界の成り立ちに影響しない。

 

  • 自由意思

「右のコップを選ぶか左のコップを選ぶか」を無意識に選んだ場合、自分で選んだ原因が分からなければ「自由意思」」によるものとはいえない。

「右のほうが利き手に近かったから」という合理的な理由に完全に従ったのであれば、プログラムによって動くロボットと変わらないということになる。

結局のところ「自由に意思を引き起こす自由」はないと言える。

 

感想・考察

入門書を色々と読んでみても、本書ほど分かりやすいものはなかった。

分かりやすく消化している分、厳密さに欠けたりするのかもしれないが、理解のための地図として役に立ちそうだ。

飲茶さんの本をいくつか読んでみようと思う。

 

『いま、拠って立つべき“日本の精神” 武士道』 新渡戸稲造

新渡戸稲造氏が英文で書いた「武士道」を日本語に逆翻訳した本です。

今欧州で生活していて、感情表現が下手で誤解されることも多いと感じています。日本が欧米国家との交流を始めた明治初期に「日本人の態度にはこういう思想背景があるのだ!」と英語で説明してくれたことに何より大きな意義があったのでしょう。

「自分とは違う考え方を持っている人」の方が「何を考えているか分からない人」よりは親しみやすい。外国語である英語でも臆せずに堂々と主張する態度自体が「武士道」を体現するものだったのかもしれません。

 

 

 

タイトル

いま、拠って立つべき“日本の精神” 武士道

 

作者

新渡戸稲造

 

あらすじ・概要

  • 武士道とは

 成文化されているわけではないが、封建制度下の武士の行動規範となっていた。仏教が制に執着せず心を平静に保つことを教え、神道が自然崇拝が国土と皇室への崇拝へと繋がり、孔子の教えが道徳的規範となった。

単なる知識は重要ではなく、行動を伴う「知行合一」が重視された。

 

「義」 は正義の感覚。「死すべきときには死に、討つべきときには討つこと」

 

「義」を実際になすこと。 武家の男子は幼少期から勇猛果敢であるよう育てられてきた。

 

 「仁」は愛や寛容、他者への情愛など人の持つ徳である。民を治める者には必須であるとされてきた。「徳」と「絶対的権力」は必ずしも二律背反する者ではないと考えられてきた。

 

「礼」は仁義を型として示す。 優美な立ち振る舞いが内面も高めるという考え方は茶道などにもつながっている。

 

 結局は正直が得だから正直でいるのではない。「名誉」に恥じないことが「誠」

 

  • 名誉

 武士は人間の尊厳として「名誉」に重きを置いた。名誉を守るためには「一命を捨てる覚悟」を持っていた。

 

  • 忠義

中国では公私の道徳が親子の関係を第一義としたのに対し、日本では主君に対する「忠義」が第一に置かれた。「武士道」は個人よりも公を重んじる。

 

  • 武士の教育

知識や思考などの知的能力よりも「品格」が重んぜられた。 武術、書道、文学、歴史などが中心となった。数学は敢えて外され富を蓄積することは「卑しい」と捉えられていた。

 

  • 克己

 禁欲的で喜怒哀楽を表情に表さないことが美徳とされた。

 

  • 切腹/敵討ち

腹に精神が宿ると考えられ、精神の潔白を証明するため腹を開いて見せた。切腹は名誉の感覚と密接に結びついている。

敵討ちは法治が徹底しない社会での抑制力としては日本以外でも広く見らる。

 

刀は武士にとって魂と武勇の象徴だった。 幼いことから帯刀し慣れ親しんできたが、究極的には刀を使わない平和を理想としていた。

 

  • 武家の女性

武家の女性も身を守るための武芸を身に付けた。夫や息子のために献身を求められた。農家や商人の家では同時期でも男女の差別は比較的少なかった。 

 

  • 武士道から「大和魂」へ

 「武士道」はそもそも支配階級の武士に求められた徳目だったが、日本全体の理想の姿になっていった。

 

感想・考察

 

 

軍事政権である「幕府」が軍人である武士を統治するため、儒教や仏教、神道の思想を取り入れながら美化していったのが「武士道」なのだろう。

儒教の「孝」の考えを主君への「忠義」に拡張したり、仏教の「執着しない」考えを命を捨てる潔さに繋げたりする意図が見て取れる。またコントロールのために「名誉と恥」が至る所に組み込まれている。

一方で、「武士道」特に「名誉と恥」の感覚が為政者自身の行動規範ともなっていったのは面白い。成文化されないながらも、実質的には「立憲制」的な実効力をもっていたのではないだろうか。明治初期までの政財界には自制の効いた品格のある人が多くいたように思える。

 

現代に生きる私にとって特に違和感を感じるのは「忠義」の感覚だ。「主君のために、自分の息子を身代わりとして殺す」ことが美談とは感じられない。忠臣蔵も正直ピンとこない。

「大切な者のための自己犠牲」には共感できる部分もあるが、その対象が「組織の上役」というのはしっくりこない。現代日本でも「会社のための自己犠牲」という感覚は残っているとは思うが、そのために「自分の子供を差し出す」という優先順位にはならない。

言い換えると、「無私で何かのために尽くすことが気品の高い行為だと感じる感性は残っているけれど、尽くす対象の”何か”は時代とともに変わる」ということなのだろう

 もっとも、旧約聖書でもアブラハムが神の要求に応じて息子のイサクを犠牲にしたように、「大切なもののために犠牲を払う」こと自体は古今東西に広がる、もっと広い感性なのかもしれない。

 

日本から「武士」が消えてから百数十年経ち、文化的な国境が消えかけているが「武士道」の一部は普遍的な価値となり更に生き残るのかもしれないと思う。

 

 

 

『ふたりの距離の概算』 米澤穂信

「古典部シリーズ」の5作目です。

前作「遠まわりする雛」から、奉太郎の省エネな生き方が少しずつ変化しているようです。特に える との距離感が大分変わってきているようです。

 

タイトル

ふたりの距離の概算

 

作者

米澤穂信

 

あらすじ・概要

えるや奉太郎たちの高校2年生5月末の話。

4月に古典部の新人勧誘で仮入部した大日向友子が正式入部直前に辞退してきた。えるは大日向が入部を取りやめたのが自分のせいだと落ち込む。

入部申し込み期限直前のマラソン大会の日、奉太郎は20kmを走りながら過去の出来事から推理し、走りながら里志や伊原、えると話して、大日向が入部を取りやめた理由を推理する。

 

新人勧誘の日のこと、奉太郎の誕生日に家に集まった時のこと、大日向の従兄弟がオープンする喫茶店に行った時のこと、そして大日向がえるに入部しない意思を告げた前日のこと、それぞれの場面で大日向の思いを読み解く鍵が隠されていた。

 

奉太郎は最後に大日向と一緒にマラソンコースから抜け出し、彼女の隠そうとした過去を読み解いていく。

 

感想・考察

「ふたりの距離の概算」というタイトルはなかなか面白い。

マラソンを走りながら、里志、伊原、える、大日向たちとすれ違うための距離を測り工夫していく。そしてそれは奉太郎が人との距離の取り方を変えようとしている姿にも重なる。

また前作の「遠まわりする雛」のあたりから、えると奉太郎の距離がずいぶん詰まってきている。奉太郎の「省エネ主義」という言葉でカモフラージュされた対人関係の萎縮をえるが溶かし、えるの不器用さを奉太郎が支えている。いい感じのカップルでちょっとラブコメ風になってきたようにも感じる。

 

謎解きとしてみると、バラバラに語られるエピソードの一つ一つに巧妙な伏線が張られているのはさすがだ。しっかりミステリになっている。

続きが気になります。

 

 

『大人の語彙力大全』 齋藤 孝

「語彙」を広げるための本ですが、知っている言葉がほとんどで新しい発見はほぼありませんでした。正直「何をいまさら・・」というレベルです。

とはいえ知っていることと使えることは違うので、意識して使えば言い回しのバリエーションを増やすことはできそうです。

「慙愧の念」、「忸怩たる思い」とか、格好いい謝罪を追求してみます。

 

タイトル

大人の語彙力大全

 

作者

齋藤 孝

 

あらすじ・概要

「語彙力こそが教養」という考えから、社会人として必要な語彙の範囲としてセレクトしている。

 

・基本語彙

「善処」「やぶさかでない」など基本的な語彙。

 

・敬語

「寛恕」「幸甚」など基本的な敬語の語彙。読んで理解できても自分が使うときは出てこない言葉も多い。

 

・言い訳

「猛省」など謝罪や断りなどで使える言い回し語彙。基本的なものだけだが、意識すれば謝罪のバリエーションは増やせそう。

 

・頻出カタカナ語

「リテラシー」「イノベーション」など。

 

・ビジネス用語

「フレキシブル」「ストラテジー」など。

 

・漱石語

夏目漱石の文章から「あにはからんや」「いわんや〜をや」など、漢文読み下してきな表現や、「懸想する」「情に掉さす」など現代ではあまり使われない語彙を紹介。こういう言い回しを日常で使えれば面白いと思う。

 

感想・考察

基本用語や、ビジネス用語で知らない語彙はなかった。私と同年代で同じような境遇にいる人にとっては「何をいまさら」というレベルの内容だと思われる。知らなければ「アウト」な語彙を集めているということなので、基礎の確認という主旨なのだろう。

 

一方「文化とは語彙の共有がベースになっている」という前提に立つのであれば、自分が当たり前だと思っていることでも、世代や環境を超えて共有されているのかは分からない。敢えて発信してみる意義はあるのだと思う。

言語は生き物で日々変わっていくのが当たり前だが、知識や経験の共有がなければ「文化」が形成されない。共有できていると思い込みがちなところは、慎重に確認してく必要があるのかもしれない。著者も多様な人と触れていく中でそう感じたのだろう。

 

「漱石語」の部分は面白かった。こちらも知らない語彙はなかったが、日常では使わない言い回しが新鮮で、敢えて使ってみるのも面白いかなと思える。

 

 

当ブログは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムであ「Amazonアソシエイト・プログラム」に参加しています。