『マチネの終わりに』 平野啓一郎
主人公の蒔野は「変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど実際は、未来委は常に過去を変えている」と言います。
洋子の子供時代の話から、主題提示し、様々に展開して可能性を見せた後に、最後に改めて主題を提示する「フーガ形式」になぞらえて出てきたものですが、本作全体でも、このような展開を見せています。
出会いの日の思い出はその時々の状況で意味合いを変えてゆくけれど、最後に再び出会い直すとき、改めてその意味が浮かび上がってきます。
美しいストーリーです。
タイトル
マチネの終わりに
作者
平野啓一郎
あらすじ・概要
クラシックギタリストである蒔野聰史はコンサートの後に小峰洋子と出会う。洋子はかつて高校生の頃の蒔野の演奏を聞き感動し嫉妬したと言い、また彼女は蒔野が敬服する映画監督の娘でもあった。
その後、洋子は記者としてイラクに赴任するが、爆破テロに巻き込まれかける。洋子のみを案じた蒔野は何度もメールを送るが音沙汰がなかった。洋子は、テロからしばらく経ちパリに戻ってから蒔野に返信を送る。蒔野のパリ公演時に再開することを約束した。
蒔野はパリで再開した日、洋子への思いを告げ、彼女のフィアンセと別れ結婚して欲しいと伝え、洋子は次に会う日まで返事を保留した。
次の約束の日、洋子がコンサートに来なかったことに蒔野は落胆したが、洋子のイラク時代の同僚が亡命し移民局に身柄を引き受けに行ったからだった。蒔野は洋子と彼女の同僚にギターの演奏を贈り、洋子は蒔野に結婚の承諾を伝えた。
洋子はテロに会ったPTSDに悩まされながらも、日本に向かい蒔野と会うことを約束する。
ところが洋子が日本に到着する日、蒔野の師匠が倒れて入院してしまう。急いで病院に駆け付けた蒔野は携帯をタクシーに忘れてしまった。蒔野はマネージャーの三谷早苗に携帯を受け取りに行ってもらったが、蒔野に想いを寄せる早苗は、洋子と蒔野の再会を妨害するメールを蒔野の携帯から送ってしまう。
その後すれ違いが続き、洋子は蒔野に会うことなくパリに帰ってしまい「婚約者リチャードとよりを戻して結婚する」とだけ伝え二人は離れてしまった。
リチャードは洋子との結婚を喜び子供にも恵まれたが、彼女から金融工学の学者としてサブプライムローンなどの取引に関与していたことの倫理的責任を問われ、洋子の冷たさにも疲れて浮気ししてしまう。結局二人は離婚し、子供を分担して育てることとなった。
蒔野の方は洋子と別れて失意に沈み、その後も病気のためギターに触れることができない日が続いていた。そんな中献身的に蒔野を支えようとする早苗と結婚することになる。長らくギターから離れていた蒔野だったが、友人と武知と一緒に演奏を再開した。
洋子は日本の母親を訪ねて一時帰国し、その時開催されていた蒔野のツアーに参加しようとした。だが既に蒔野の子を身ごもっていた早苗に見つかり、客席に来ないで欲しいと言われる。その時の会話で、蒔野との別れは早苗が偽装したメールが原因であったことに気づいてしまうが、洋子はそのまま身を引いた。
武知とのツアーでスランプを脱した蒔野だったが、ツアー終了後ギターを辞めて家業を継ぐといっていた武知が自殺してしまったことを知る。その話を聞いた早苗は自分の罪深さを恐れ、洋子に偽メールを送り二人を別れさせようとしたことを告白した。
その後、ニューヨークでのリサイタルの客席で、蒔野は洋子の姿を見つけた。
感想・考察
とてもよく練られた美しい話だと思うが、洋子も蒔野もちょっと高潔過ぎる感じで読んでいて息苦しくなる。
そんな中、三谷早苗の存在が救いになっていると感じた。地べたを這っても泥水を飲んでも自分が主役になれなくても、自分に忠実に生きる早苗は、洋子よりも蒔野よりも魅力的に見える。
洋子の父ソリッチ監督は「自由意思というのは、未来に対しては、何かができるはずという希望だが、過去に対しては何かができたはずだったという悔恨になり得る」と語ったが、「過去は変えられなくても、未来の出来事は過去の意味合いを変えていく」のだろう。
マチネの終わりに洋子と蒔野は再び出会い、その関係がどうなるのかは分からないが、早苗は、未来への自由意思で過去を切り開いていくのだと思える。
『プラグマティズム入門』 伊藤邦武
哲学としてのプラグマティズムについて、その源流から現代の流れまでを解説する入門書です。
人によって重点が違いますが、大筋としては「西洋哲学史では『不変で確実な真実』追い求めてきたけれど、どうやら怪しい。現実に即して役に立つものが真実でいいんじゃない」ということですかね。
タイトル
プラグマティズム入門
作者
伊藤邦武
あらすじ・概要
プラグマティズムとは何か
20世紀初頭に生まれたプラグマティズムは、豊かなダイナミズムを持っていて、重点や方向性により幅広い展開を見せながら、19世紀末から今日まで生き残ってきた。プラグマティズムは元々は「方法論」だったが、「真理」や「価値」という根本原理にまで展開されている。
源流のプラグマティズム
19世紀後半から20世紀初頭、デカルト主義に反する立場から生まれる。
- パース
パースは、デカルトの「普遍的懐疑・方法的懐疑」は不可能だと示し、「観念の明晰性」が懐疑の末に得られることはないと述べた。
我々の信念は常にしっかりとした基盤があるわけではなく、いくつかの信念がつながりのなかでダイナミックに入れ替わり常に改定されていく「可謬的」なものだとする。
その上で「真理」とは「信念の探求は無際限に継続するが、その収束点として想定できる最終信念」であると考えた。
- ジェイムズ
ジェイムズはパースの影響を受けながら「真理とは行為のための有効な手段」であるとし、「事実」と「価値」を区別することを批判した。信じようとする意志を持つことで、信念を真理化できると考えた。
「どうしても賭けなければならない場合は、証拠が不十分であっても信じることには意味がある」としデカルトの懐疑主義に反対しているといえる。
- デューイ
デューイはパースとジェイムズの思想を取り入れながらさらに弾力のある思想へと広げていった。
西洋哲学の前提は「数学的審理など永遠不変の確実な世界と、コントロール可能な流転する世界」の二元論で、哲学・科学は「確実性の追求」を目指していた。
デューイは「不確定な仮説が探求を重ねることで保証付きになる」とし、それは社会的・文化的な背景を根本的に含んでいるとした。科学的探究も道徳的判断なども同じように実験的態度で追求すべきだとしている。
少し前のプラグマティズム
20世紀半ば以降、主流となっていた論理実証主義に対抗する形でネオ・プラグマティズムが広がる。
- クワイン
クワインは「真偽を問いうるものは実証的なもので、価値は真理に関与しない」 という論理実証主義に対し、実証の元となる分析的・総合的真理は曖昧でありと考えた。
「我々は生のデータを外界から受け取っているのではなく、経験は頑強な部分と修正を受け入れやすい柔軟な部分による信念のネットワークを活用しして世界と向き合っている」とした。信念の真偽は「そのシステムにとっての有用性」によって決められる。
- ローティー
ローティーは、プラトンからデカルト、カントにまで一貫する「認識論における基礎付け主義」「真理についての本質主義」「言語についての表象主義」を批判した。真理という観念に関しては科学から文学、政治まで優劣のない多元論を取る。
真理が社会的な連帯という意味しか持たないのであれば、個々の文化や時代に固有の真理しかありえず、自分の立場を「自分か中心主義」と規定した。
- パトナム
パトナムは当初「科学的実在論」を採っていたが、客観的知識の確実性への懐疑から、外界の認識は個々の主体の関心と結びついているという「内在的実在論」へと移行していった。さらに認識とは身の回りの日常的な形での「自然なものの善」への意識を研ぎ澄ませようと提唱する「自然的実在論」へと移行していった。
これからのプラグマティズム
20世紀後半から21世紀にかけてのプラグマティズムの動向を概説する。
言語哲学において「反表象主義」を徹底し、「統語論」「意味論」より分の発話の適切性を判定する基準に関する「語用諭」を重視したブランダムの立場や、パースを再評価し「数学の哲学」という視点からプラグマティズムを深めたマクベスやティエルスランを紹介する。
感想・考察
プラグマティズムは哲学の範囲を超えて、実利主義・現実主義として広がっていて、都合の良い相対主義だと捉えられるかもしれない。だがそもそもプラグマティズムは「方法論」であり「絶対不変の外的な真理」には到達不可能だとしながらも、「それでも真理に達しよう」という思想なのだと捉えた。
後半、特に「これからのプラグマティズム」の章は説明が簡略化され過ぎて、前提知識がない私には理解が追い付かなかった。関連書を読んでから再読してみよう。
『そして誰もいなくなった』 アガサ・クリスティー
ずいぶん昔に読んだけれどだいぶ忘れてしまったので再読しました。今読んでも驚きを感じるミステリの傑作ですね。
絶海の孤島、童謡への見立て殺人、連続殺人で容疑者が減っていく緊迫感など、その後のミステリにつながる仕掛けを作りながら、読者を驚かせるトリックをきっちりと入れ込んでくるのがすばらしい。またそれ以上に登場人物10人の内面描写が生々しく引き込まれます。
タイトル
そして誰もいなくなった
作者
アガサ・クリスティー
あらすじ・概要
イギリス兵隊島のオーエンの屋敷に、様々な属性の10人呼び寄せられた。
最初の被害者は、奔放な青年のアンソニー・マーストン。かつて自動車事故で子供を殺していたが、自分の責任を認めることがなく、荒い運転を改めることもなかった。毒物入りの酒を飲み最初の死者となる。
2番目被害者エセル・ロジャースはオーエンに雇われ数日前に屋敷に訪れた家政婦。夫のトーマスと共にかつての雇い主を「消極的に殺害」した疑いがもたれていた。致死量の睡眠薬を飲まされ殺される。
3番目は退役した将軍のジョン・マッカーサー。妻の愛人を危険な戦地に送り戦死させていた。後頭部を殴られ死亡する。
4番目のトマス・ロジャースもオーエン邸の使用人。妻のエセルと共に数日前からオーエン邸に来ていた。燃料の薪を準備している最中、斧で後頭部を切られる。
5番目のエミリー・ブレントは厳格な老婦人。未婚の母となった使用人の娘を自殺に追い込みながら一切悔いることが無かった。首に注射を打たれ毒殺される。
6番目は元判事のローレンス・ウォーグレイブ。ある裁判で陪審員を意図的に有罪に導いていた。赤いマントとグレーのかつらで判事としての正装をさせられ、最後には銃で額を撃ち抜かれ死ぬ。
7番目は医師のエドワード・アームストロング。かつて酒酔い状態で医療事故を起こし女性患者を死なせていた。海に突き落とされ溺死する。
8番目は元警部のウィリアム・ブロア。かつて賄賂を受け取り法廷で偽証し、無実の男を死に追いやっていた。窓から落ちてきたクマの置物に潰され死亡する。
9番目は元軍人のフィリップ・ロンバート。かつて戦場で民間人から食料を奪い21人を死なせていた。最後2人だけになったとき疑心暗鬼となったヴェラから銃で撃たれ死亡する。
最後は教師のヴェラ・クレイソーン。病弱な少年の家庭教師をしていたが、その少年が死ねば恋人に資産が入ることから、少年を海で泳がせ死に追いやった。フィリップを銃殺した後、罪の意識にさいなまれ首を吊って死亡した。
最終的には10人全員が死亡したが、島には他の人間はいなかった。
誰がこの犯行を計画し実行したのか。
感想・考察
プロットの上手さに感服させられるが、人物の描写も素晴らしい。10人のそれぞれの罪と、作者がそれをどう捉えているのかというのも興味深い。
他人への関心が弱く罪の意識が希薄でサイコパス的なマーストンは、最初の被害者で追い詰められる恐怖を感じずに死んでいる。考えのない「単なるバカ」で、周到な悪事よりは罪が軽いという考えなのだろうか。
ロジャース夫妻の「未必の故意」による消極的な殺人には容赦はない。従犯と思われる妻のエセルは眠っているうちに楽に亡くなったが、夫は斧で頭を割られるという凄惨な死に方をしている。積極的に手を下したかどうかではなく、内面の意思が問題ということなのだろう。
飲酒状態で手術に失敗したアームストロングも裁きを受けている。医療事故と考えると「飲酒しているから処置はできない」と拒否できる状況だったのかどうかは気になるところだ。
判事のウォーグレイブは恣意的に有罪に誘導したが、後から証拠が見つかり「結果的には正しかった」と判断されている。私の感覚では「証拠が無い時点で、自分の感性を根拠に、疑わしきを罰した」ことは正しいとは思えない。
様々な罪の類型の中でも最も醜悪に描かれていたのはエミリー・ブレントだ。「自分の正しさ」に固執し、自分と違う考え方を持つ者を蹂躙することを全く躊躇せず、むしろ正義の行使と考える。
同じくクリスティーの「春にして君を離れ」の主人公と同じタイプのエミリーは、吐き気がするほど胸糞悪く描写されている。おそらく作者はこういう人間が相当嫌いなのだろう。
舞台作りの巧みさと、人間ドラマの深みが両立している。さすがは長く読み継がれる名作だ。
『オトナの短篇シリーズ02 「怪」』 オトナの短篇編集部
明治から昭和中期くらいまでに活躍した著名な作家たちによる「怪奇譚」を集めた短編集です。
タイトル
オトナの短篇シリーズ02 「怪」
作者
オトナの短篇編集部
あらすじ・概要
著名な作者による怪奇譚。
1ページにも満たない超短編から、中編まで全9話を収める。
- 週電車に乗る妖婆/田中貢太郎
生活様式が変われば会談も変わる。電車に現れる金貸し老婆の怨霊の話。
- 桜の木の下には/梶井基次郎
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」から始まる。桜と死をともに耽美的に捉える。
- 待つ/太宰治
20歳の女性は戦争が始まってから毎日、駅前に座って誰かを待っている。誰を待っているのかは自分でも分からないが、待っているのは素晴らしいもの。
- セメント樽の中の手紙/葉山嘉樹
建築現場で働く男はセメント樽の中に小さな箱を見付ける。箱の中の手紙には「私の恋人はセメント工場での事故で亡くなり、死体は粉砕されてセメントになってしまった」と書かれていた。
- 文字禍/中島敦
古代アッシリアの学者ナブ・アヘ・エリバは、王から「文字の霊」の調査を命じられた。ナブは文字を学んだ者は「記憶力を弱らせ、考える力を失い、分析的になって本質を捉えられなくなる」という文字の呪いがあることを発見する。自らも文字の呪いに囚われつつあることに怯えたナブは王に進言するが、王の怒りを買ってしまう。
- 瓶詰地獄/夢野久作
無人島から流された3本の瓶詰の手紙が見つかる。
1つめの手紙は、ようやく救助が来たが罪深い私たちは元の世界に戻ることはできないと身投げをする決意が書かれる。
2つめの手紙はその数年前なのか、「私」と「アヤ子」が無人島に到着してから10年ほど過ぎた頃の話。水も食料も豊富な島で生きることに苦労はなかったが、徐々に成長するお互いを意識してしまう様子が描かれる。
3つ目の手紙は、「太郎」と「アヤコ」が島に流れ着いた直後、助けを求めるメッセージ瓶に詰めて流した者だった。
3つの手紙の時系列を考えるといくつかの矛盾点があり「実際には何が起こったのか」が分からなくなる。
- 悪魔の舌/村山槐多
友人が自殺の直前に電報を送ってきた。友人は「自分が悪魔であり、悪魔の舌を満たすためのゲテモノを食べ続け、最後には人間の味を知ってしまった」という告白文を隠していた。
- 白血球/豊島与志雄
とある一家が引っ越してきた家は、何かが憑いているという評判があった。やがて刑事が訪れ、嫌な感じのする女中部屋の押し入れから一枚の板を抜き取り調査のために持っていった。刑事いわくその板は数年前に殺人があった家に使われたものだという。
- 少女病/田山花袋
雑誌社に勤める男は少女の美しさを賛美する作品を書き続け、周囲からは揶揄されていた。彼の楽しみは通勤電車で可憐な少女たちをさりげなく観察することだったが、電車に惹かれて死ぬ。
- 鸚鵡蔵代首伝説/国枝史郎
親を亡くした菊弥は嫁いだ姉のお篠を頼って訪れた。お篠は嫁ぎ先の伝統を守り夫に代わって「代首」とよばれる首を洗っていた。
山彦のように声を返すと言われる「鸚鵡蔵」に興味を持った菊弥は蔵の周囲を探っていたところ、壁の隙間から中に転がり込み、誰かに捕まってしまう。
感想・考察
どれも短い作品だが、メジャーな作者たちの作品だけあってどれも強烈な個性を感じさせる。特に気に入ったのは「瓶詰地獄」と「少女病」だ。
夢野久作「瓶詰地獄」は3本の瓶に詰められたメッセージをよく読むと、色々と矛盾が見つかる。それぞれが書かれた時系列はどうなっているのか、登場人物は固定された2人なのか、2人は最終的のどうなったのか、不明点が多く残る。
伏線を散らし、風呂敷を広げて、最後は「さてどういうことでしょう?」と読者にぶん投げてくるスタイルはエヴァとかにも流れているように思える。伏線を回収してしまうと「なーんだ、そんなことか」と安っぽく見えてしまうことも多いが、未回収のまま置いておくと、読者が勝手に高度に考察してくれる。その前提となる世界観がきっちり描けていることが前提だとは思うが、読者の力を利用するパターンも面白い。
もう一つ、田山花袋「少女病」もなかなかすごい。実際に読んだことはなかったが「蒲団」などで赤裸々な描写による自然主義文学を志した人という印象を持っていた。でも実際に読むと、「赤裸々な自然主義」というより「自虐系ガチロリじじい」だった。コミケで同人誌を売っていても違和感ないだろう。オチの雑なぶん投やけに親近感を覚える。
『探偵AIのリアル・ディープラーニング』 早坂吝
早坂吝さんは「○○○○○○○○殺人事件」などでも設定がぶっ飛んでいたり、オチが落ちすぎていたりとイロモノっぽい雰囲気はありますが、徹底的に理詰めで考えられた展開はやっぱり「本格推理」なのだと思います。
「どんなに非現実的に見えても、理論上排除されないならアリだよね」という姿勢は「フレーム問題」が解決されてないAIに近い考え方なのかもしれません。
比喩を理解しないAIが推理マンガから学習したら「全身黒タイツ」は最強の犯人像になるのかもしれない。こういうノリは大好きですね。
タイトル
探偵AIのリアル・ディープラーニング
作者
早坂吝
あらすじ・概要
高校生の合尾輔(あいお・たすく)は、AI研究者の父が遺したAI探偵の 相似(あい)と共に事件を解決してゆく。
- 第一話「フレーム問題 AIさんは考えすぎる」
AI研究をしていて合尾創(あいお・つくる)は、仕事場のプレハブ小屋で焼死していた。部屋は内側から施錠されていたため事故死と判断されたが、納得いかない息子の輔(たすく)は現場を調べていく。部屋に隠されたSDカードに相似(あい)というAI刑事が残されていた。
相似は創が生み出した事件解決のためのAIで、似相(いあ)と呼ばれる犯人役のAIとシミュレーションを重ねディープラーニングによる強化がなされていた。
輔は相似の力を借りて事件を解決しようとするが、可能性の濃淡を判断できない相似はあらゆる仮説を持ち出し結論に近づくことができなかった。
- 第二話「シンボルグラウンディング問題 AIさんはシマウマを理解できない」
犯人役AIとして育てられた似相は、人工知能が人間を統治すべきとする集団「オクタコア」の手に落ちた。「オクタコア」は似相のテストを兼ねて、機械に敵意を抱く環境保護団体「トーキョーゼブラ」への攻撃方法を考案させる。
相似とAI探偵事務所を開設した輔は、「トーキョーゼブラ」で起こった殺人事件の解決に乗り出す。
多くの仮説を考慮しなければいけない探偵AIである相似はフレーム問題に悩み、オリジナルの犯罪考案のためシンボルを具体的に理解しなければいけない犯人AIの似相はシンボル・グラウンディング問題に悩まされる。
- 第三話「不気味の谷 AIさんは人間に限りなく近付く瞬間、不気味になる」
輔の通う学校でいくつかの事件が発生していた。校庭ミステリーサークル事件から、窓を虹色に塗られる事件、銅像の首が切られる事件など徐々にエスカレートし、ついには生活指導の教員が階段から突き落とされる事件にまで発展した。
その教員を尊敬していたという輔の同級生は、輔と相似に解決を依頼する。
人間の感情を理解し始めた相似は、人間の感覚に近いが微妙に違う「不気味」な推理を披露してしまう。
- 第四話「不気味の谷2 AIさん、谷を超える」
輔は、父の創が母の焼死事件に疑問を持ち調べていたことを知る。当時輔はまだ幼く記憶はなかったが、父の遺志を継ぎ相似と共に捜査を開始した。
母の故郷に赴き初めて祖母に会うが、AI探偵の話をしたとたん祖母は怒り狂い、二度と顔を見せるなと拒絶する。
母が焼死した山小屋の焼け跡に向かい、自殺でなかった証拠を探そうとする。
- 第五話「中国語の部屋 AIさんは本当に人の心を理解しているのか」
輔は「オクタコア」に拉致され、相似との「相手をしているのが本物なのか」を見極めるチューリングテストを強制される。ニセの人工知能の方にも相似の記憶が移植され「二人しか知らない」はずのことも知っている状況で、真実を見極めることができるのか。
中国語の部屋は「中国語が分からない男が、漢字の内容を理解しないままでも、対応マニュアルに従って対応していたら、相手には中国語を理解しているように見えるが、本当に内容を理解していると言えるのか」という思考実験をオマージュしたものだった。
感想・考察
AIとミステリという組み合わせも、論理をこねくり回すのが好きな早坂吝さんの手にかかると、独特な面白さを醸し出している。
AIが「複数の仮説の重み付けを判断できない」というフレーム問題を扱うことは、ミステリで「任意の仮説を取れば任意の結論を出せる」勝手さへの疑問提示ともとれる。この問題を「ミステリの多読で解決した」というのも皮肉に感じてしまう。その中に「毒入りチョコレート事件」とかも入っていたのだろうか。
また「不気味の谷」や「中国語の部屋」では、「AIは心を持ちうるのか」という疑問に対して「美しいと思ったかどうかより、美しいと発言したことが大事」だとした。「事実」と「表象」の区別には意味がないという作者のプラグマティズムが垣間見える。
なかなか面白いので続編も読んでみよう。
『池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」』 池上彰
近年改めて注目されているマルクス「資本諭」ですが、分かりにくいレトリックが多く難解な書物とされています。
池上彰さんらしく、とても分かりやすく噛み砕いて説明してくれています。
「人間の労働があらゆる富の源泉であり、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売することによって利益を上げ、資本を拡大する。資本家の激しい競争により無秩序な生産は強行を引き起こし、労働者は生活が困窮する。労働者は大工場で働くことにより、他人との団結の仕方を学び、組織的な行動ができるようになり、や当て革命を起こして資本主義を転覆させる。」
という冒頭の要約だけで大体分かった気になりました。
タイトル
池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」
作者
池上彰
あらすじ・概要
難解なマルクスの「資本諭」を、高校生にへの講義形式で分かりやすくまとめている。
- 資本諭が見直された
「社会主義国家」と「資本主義国家」に別れた東西冷戦の時期には、資本主義の側でも、資本の暴走を防ぎ社会保障を厚くする政策が取られていたが、20世紀末に社会主義国家が軒並み崩壊したのちは、社会保障の負担が大きくなりすぎたため、市場原理に基づく「新自由主義」が広がった。
その結果、マルクスの時代のように金融恐慌が発生したり、日本においても派遣切りのような労働環境の悪化が広がっていった。
そのため、改めて資本論を見直そうという動きが一部で出始めている。
- マルクスとその時代
マルクスは19世紀初めのドイツ(当時はプロイセン)でユダヤ人として生まれた。1848年にはエンゲルスと共同で「共産党宣言」を発表し、1867年に「資本諭」を出版した。
1917年のロシア革命は「資本諭」の影響を受けたものだったが、社会主義革命は労働者が成熟するまで資本主義が発達した社会で起きるというマルクスの想定とは異なる形で発生していた。
- 世の中は商品だらけ
「資本論」は「商品」の分析から始まる。
「商品」は人の何らかの欲望を満たすためのものだと定義する。
- 商品の価値はどうやって測る?
「商品」には「使用価値」と「交換価値」がある。使用する価値があるモノは他の使用価値のあるものと交換することができ、その比率は価値によって量的に示すことができる。
例:リンゴ2個(食べると美味しい)の価値=ペン1本(字が書ける)の価値
そしてその価値は「人間の労働」が作り出しているとし、価値の基準は投下された労働時間によって決まるとしている。同じ労働時間でも複雑労働は単純労働をいくつか重ねた働き方をしているので、単純労働より価値が大きくなる。
また労働集約・分業による効率化で同じ労働時間で生み出せる価値が大きくなったため、社会全体の富が蓄積されていると考える。
- 商品から貨幣が生まれた
商品は交換価値を持つが、交換に便利な価値あるモノとして、多くの社会で金銀のような貴金属が使われ、やがて貨幣となった。やがて貨幣は記号となり、貴金属との兌換性を失った紙幣も流通するようになった。
貨幣は「価値の尺度」「価値の保存」「支払い手段」としての機能があり、「世界貨幣」として国家間の貿易にも使われる。
- 貨幣が資本に転化した
商品 → 貨幣 → 商品という単純な交換で価値が増えることはない。しかし貨幣 → 商品+付加価値 → 貨幣+ という過程で貨幣は増える。このように貨幣を使って剰余価値を生み出す動きを始めたお金のことを「資本」と呼ぶ。
「資本」は自己目的的に増殖を目指し、この運動の担い手を「資本家」という。資本が人格化したものが資本家だとし、資本家も資本の奴隷であり人間性を失ってしまうのだと考えた。
- 労働力も商品だ
資本家が資本の価値を増やすためには「労働」が必要だとする。
封建社会では農民などの労働力は土地や領主に属しており自由にやり取りすることはできなかったが、資本主義社会では労働力も労働者の「商品」として自由に売買することができるようになった。
労働者と資本家は法的には対等で労働力と貨幣を等価交換している。
ただ、労働力の再生産コスト(疲れをいやしたり、食事をとったり、将来の労働力のため子供を育てたりするコスト)のために必要な労働時間が総労働時間より短ければ、労働により剰余価値が生じていることになり、この分は資本家がさくしゅしていると言える。
- 労働力と労働の差で搾取する
例えば、ある労働者が12時間働いて12万円の価値を生み出すとして、その人が次の日も働くため休むコストとして10万使いその分を給与として渡すなら、残り2万円は資本家のポケットに入る。
労働者の生産物は労働者のものではなく資本家に属する。部品や加工機械などは調達時点から価値が変わらないので「不変資本」とよび、労働は自分の価値以上に価値を生み出すので「可変資本」とよぶ。
- 労働者はこき使われる
労働による剰余価値を最大限にするため、資本家は労働者にできるだけ長時間働いてほしい。ただ限界まで働かせると労働力を再生産できなくなるため、ある程度の規制が生まれてきた。
また剰余価値が生まれること自体は否定していない。労働力再生産のコストより多くの価値を生み出せるから、社会全体の富が増加し豊かになっていくといえる。剰余価値の配分の問題であると考える。
剰余価値には労働時間延長などで増やせる「絶対的剰余価値」と、労働効率を上げたり労働力の再生産コストを下げることによる「相対的剰余価値」がある。
ロボットなどの導入は「相対的剰余価値」を増大させている。また生産・流通のコストが下がり日用品の価格が下がれば労働力再生産のコストが下がる。
マルクスの時代には資本家と経営者はほぼ同一だった。現代ではサラリーマン社長も増え経営と資本は分離してきているが、株主の意向に従うという点で大きな違いはないと言える。
- 大規模工場が形成された
労働の集約が資本主義の始まり。労働者が集まることで効率が上がるし、競争が生まれることで労働者個人ごとの能力も上がっていく。
一方で労働者自身が多くのことを学び、他の労働者と連携する術を学ぶことで、資本家との間に対立する空気が生まれていく。
- 大規模な機械が導入された
機械の導入で節約できる労働時間が、導入のための労働コストを上回る場合に機械が導入される。
機械の導入は、力が弱い女性や子供も労働に就くことを可能とし、働き手が増えることにより家庭単位での労働力再生産コストを下げることができる。
また機械の導入は一定の労働時間の中での、労働の密度と強度を上げて、労働者はより疲弊するようになる。
さらに機械は労働者の競争相手となり失業者が生まれることにもなる。社会全体で労働者人口が余剰になれば給与が引き下げられる。
一方で単純労働を機械に置き換えた後に労働者の数は減り、残った労働者は多くの仕事に対応できなければならない。そのため職業訓練校など教育が支援されてきた。
- 労働賃金とは何か
賃金は直接的な時間給であれ成果給であれ、時間給であることに変わりはない。出来高制は成果物により評価されるので仕事が高密度になる傾向にある。
- 資本が蓄積される
労働の需要が上回ると賃金が上昇することはあり得るが、資本家が利益を上げられるポイントが限界となる。
結果的に資本は蓄積され、労働力以外に売り物を持たない「プロレタリアート」が増加していく。
- 失業者を作り出す
生産手段への投資が増えることで労働力の相対的な量は減っていく。余剰労働人口=失業者 が増えることで賃金の増加が抑えられている。
マルクスは資本の蓄積が進むほど格差が拡大し生活困窮者が増えることを予言している。
- 資本の独占が労働者の革命をもたらす
労働者が生産手段を保有している小規模経営の段階から、生産手段が集中する資本主義へと変化してきた。
マルクスは、今後さらに資本の集中が進み、科学が産業技術に応用され、労働手段が共同でのみ利用できるように変化し、全ての民族が世界市場のネットワークに組み込まれると予言している。
資本の集中は労働者の貧困と抑圧を生むが、一方では労働者側も訓練され統合され組織化される。資本主義はどこかの段階で労働者により覆されるとした。
- 社会主義の失敗と資本主義
マルクスは高度な資本主義国で社会主義革命が起こると想定していたが、実際には資本主義が未熟なロシアや中国で革命が起こった。下地となる労働者層が発展していない段階で一部のインテリが主導した革命だったため、国家権力主導による革命となっていった。
一方で資本主義国家の側は、ケインズらの修正資本主義により恐慌を回避したり、社会保障の強化で労働者の不満を和らげる動きをとり、革命を抑え込んだ。
東側の社会主義国が軒並み崩壊したのち、修正資本主義で国家の負担が大きくなっていた西側諸国には、市場に任せる自由主義に回帰していった。
その結果として150年前のマルクスの時代にと同じような状況が再現している。
感想・考察
持って回ったレトリックが多く読みにくい「資本諭」を、現代の具体的な事例に引き寄せて分かりやすく説明する池上氏の手腕はさすがだ。
池上氏の言う通り、社会主義国家の崩壊後に新自由主義が広がり、マルクスの時代の状況が再現している部分があるのは間違いないと思う。
ただ技術や社会状況など条件が変わっている部分も多々あり、それを現代の条件で考え直したらどうなるのか興味がある。
例えば以下のような点だ。
①「可変資本(=労働)から固定資本(=機械設備)へ比率が移る」と予測しているが、実際にロボットやAIの進歩で、多くの分野で直接的な労働の必要が小さくなってきている。将来的に一部分野だけでも労働がゼロで成立する産業が生まれた場合、労働力の投入無しで無限に資本を増加させることができるかもしれない。
そうなった場合「資本」はどこに向かうのか。
自己増殖の本能を失わないなら、市場維持のため労働しない労働者に賃金を分配するのか。「交換価値」を蓄積するメリットもなくなるので、自己増殖のモチベーションも失ってしまうのか。
②大工場など、資本も設備も労働者も大規模に集積されることを想定しているが、ネットワークの進歩が分散をもたらしている分野もある。
物理的なものを作る業界ではいまだ集約が必要だが、そういう分野ではロボットなどの導入効果が高く、労働者集約の必要性は薄れていく。メディアなどは形態によっては安価に小規模で運営することができるようになり、資本労働者の集約の意義が薄れているように思われる。インフラなどの寡占と多数の小資本になるのかもしれないが。
資本集中型でないビジネスの可能性が広がることが、資本の自己増殖による貧富拡大を抑制することはあり得るのか。
また、物理的に集約されない労働者が、資本家と対立するレベルまで組織化することはあり得るのか。そこはネットワークによるコミュニケーションが代替するのか。
③予備労働力としての失業者がいなくなることはなく賃金上昇を抑制していると分析している。一つの国の中での賃金上昇や労働人口、消費人口の変動は、グローバル化の進展で影響が見えなくなっていたが、今後アジア・アフリカでの人口増加が終息したのちは、人口動態の変動が直接影響するようになるのか。
資本主義が始まって以降初めて「労働者人口が減る」という事態が発生した場合、資本と賃金の関係はどのように変わっていくのか。
機械化・AI化の影響と相殺されるのか。
等々、考えていくと面白い課題がたくさんありそうだ。
『追憶の夜想曲(ノクターン)』 中山七里
強烈な過去を持つ弁護士、御子柴礼司が主人公です。
最初は設定についていけなかったのですが、シリーズ2作目だったんですね。今度は1作目の「贖罪の協奏曲」を読んでみようと思います。
法廷サスペンスとして緊迫感ある展開の中、御子柴弁護士の業が垣間見える、深みのある作品でした。
タイトル
追憶の夜想曲(ノクターン) 御子柴礼司シリーズ
作者
中山七里
あらすじ・概要
御子柴礼司は少年時代に幼女を殺し少年院に入った経歴を持ちながら、名前を変え司法試験に合格し弁護士となって活躍していた。
主婦による夫殺し事件の二審弁護を担当弁護士から奪い取り、減刑を狙う。
夫はカッターで首を切られ死んでおり、妻の亜季子が血を風呂場で洗っているところを義父に見つかり、そのまま警察に通報されている。亜季子本人も起訴事実を認めており、二審では量刑判断だけの裁判になると思われていた。
亜季子は明かしていない秘密があると感じた御子柴は、過去にさかのぼり彼女の経歴を探っていく。
亜季子が隠し守ろうとしているものは何なのか。
御子柴が「メリットのない」弁護に敢えて行うのは何が理由なのか。
感想・考察
幼女殺人という全く同情の余地のない犯罪を犯した男が主人公だ。「贖罪」であるにしても彼が弁護士として人の罪を裁くことに関わっていくのは認められない人が多いのではないかと思う。
敢えて受け入れがたい設定をぶち込むことで「日本の刑事裁判が厳罰化の傾向にあること」や「裁判員裁判の導入により感情的な判決が増加していること」などで、「罪を許さない社会になっている」ことを見せたいのかもしれない。
裁判に関わる話だけではなく、ネットなどを見ていても社会全体として「悪いヤツは許さない」という趨勢にあるのを感じる。
特に本作主人公のように罪のない少女を殺した凶悪な犯罪者であれば「更生とか意味がない、二度と世の中に出てくるな!」と私自身も考える。
それでも、敢えて、そういう人間を主人公とし「贖罪」に向かう姿勢を見せ「犯罪を犯した者に対し不寛容であることが、世の中をよくするための最適解なのか」という疑問を投げかけている。
御子柴の贖罪は不器用で、依頼人の願いとは違う解決で人を傷つけてもいるが、最終的には、守るべき人を守り、裁くべき人を裁く結果になっている。
法廷サスペンスとして弁護士と検事のやり取りの面白さや、ミステリとしての伏線配置の巧みさなど、ストーリー展開のうまさで一気に読まされるが、テーマは重く心に残る。
本作に至るまでの経緯が気になるので、シリーズ1作目「贖罪の奏鳴曲」を読んでみることにしよう。