夜と霧 新版
先日読んだ「神様のカルテ2」で、主人公の細君が「やる気も夢もない」という学生に貸していた本で、内容が気になり読んで見ました。
極限状態での人の心の動きを、精神科医・心理学者として、できるだけ普遍的に捉えようとしています。惨めな状況であっても、尊厳を持って生きるというのはどういうことなのか、ジリジリと伝わってきます。
気持ちが緩んだ時に読むと、ビシッと引き締まります。
【作者】
ヴィクトール・E・フランクル
【あらすじ・概要】
精神科医である著者が強制収容所に収容された経験から、極限状態での心の動きを観察した内容。施設に収容される段階、施設で生活する段階、解放された後、の3つに分けて語っている。
・収容の段階
最初は、自分はそれほど悪い状況には陥らないという「恩赦妄想」を持つ。やがて身ぐるみ剥がされる段階になると、ショック状態に陥るが、人間はやがて環境に慣れる。高圧電流が流れる鉄条網に走り自殺を図る人などもほとんどいなかった。
・収容所での生活
数日がすぎると徐々に感情が消失していく。「帰りたい」という気持ちは消え、痛めつけられる同胞を見ても何も感じなくなる。
殴られることによる物理的な痛みに対しても鈍くなっていくが、嘲り愚弄されうことは、精神を弱らせる。
強いストレス下で生命維持に注力せざるを得ない状況では精神生活が「退行」するのが一般だが、感受性の強い人には、むしろ内面的に深まっていく人もいた。愛する人やなすべき仕事を心の中に持つことが強さとなる。
劣悪な環境下で肉体の自由は制限されるが「与えられた環境でいかに振る舞うか」という自由は奪えない。収容所にいても人間として踏みとどまり、尊厳を守る人間は確かに存在したという。
生きる意味について、「私たちが生きることから何を期待するかではなく、生きることが私たちから何を期待しているのか」が問題なのだという。「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務を引き受けることに他ならない」と説く。
・解放された後の段階
解放された直後は喜びをはっきり感じられない。それほど感情が消耗している。やがて数日の時間を経て人間としての感情を取り戻していく。
未熟な人間では、権力や暴力の枠組みから離れることができず、暴力の客体から主体に変わるケースもある。また他者が自分の苦しみを軽く扱うことに失望する人も多い。
収容生活を精神的に支えていた「自分を待つもの」が、既に亡くなっていたような場合の失意も大きい。
【感想・考察】
今自分自身は、強制収容所のような極限状態にあるわけではないが、環境に流されるのではなく「環境に対する反応を、主体的に選び取っていく」ことができないなら、精神的に自由であると言えない。
人生に何かを期待するのではなく、人生からの問いに時々刻々と、具体的に答えていくことに生きる意味がある、というのは、実感を持って理解することはできないが、力強く生きるというのはそういうことなのだろうと思う。
消化しきれなかったので、時間をおいて再読したい。
【オススメ度】
★★★☆☆