最後の将軍 徳川慶喜
徳川幕府最後の将軍として有名な徳川慶喜の話です。
司馬遼太郎氏は史実をベースにしながら、人物のキャラクタを作中で練り上げていくスタイルですが、「徳川慶喜」については最後まで掴みどころがない感じがあったのではないでしょうか。
時代の流れに巻き込まれながら、したたかに生き、結果的には近代的な日本の創生に貢献した人で、私自身はかなり好きになりました。
【作者】
司馬遼太郎
【あらすじ・概要】
水戸徳川家に生まれた徳川慶喜は、嫡流からは遠く、幕府も水戸の徳川家を危険視していたため、将軍となる立ち位置ではなかった。しかし、12代将軍家慶の意向を受け一橋家の世嗣となり、将軍候補となる。
幕末に諸外国が開国を迫る中「尊王攘夷」派の志士たちは、尊王思想の強い水戸藩の慶喜に期待する。井伊直弼による幕府反対派への粛清の一環で慶喜も軟禁されるが、桜田門外の変で井伊が殺され、慶喜は解放される。
その後、13代家定、14代家茂将軍の後見として政治に関わり始める。尊王攘夷派は慶喜に外国との闘いを期待したが、彼我の圧倒的戦力差を認識する慶喜は開戦を避け続けていた。
慶喜は当時のドイツのような、諸侯連合体制が適切であり、その中で実務的に政権運営能力がある徳川家がリードしていくのが実際的だと考えていた。
14代将軍の家茂の死後、幕閣は慶喜が将軍となることを推した。趨勢が見えていた慶喜は「火中の栗を拾う」ことを望まず固辞するが、最終的には将軍となる。
「大政奉還」の申し出を受けた慶喜は、現行体制の危うさを知っていたため、これを受ける。その後薩長から挑発を受け、一部の兵の暴走もあり、戊辰戦争として朝廷と闘うことになる。朝敵となることを恐れた慶喜は江戸に逃れ、徳川家の家督も養子に渡した。
その後は新政府に恭順とする姿勢を崩さず、政治に関与することもなく、大正時代、77歳まで生きる。
【感想・考察】
多才で器用で頭の回転が速く、情勢を見通す力があった。一方、人を信じることができず、自分で抱え込みすぎ、周囲を巻き込むことができない。権力欲は弱く、自分の趣味に没頭するタイプ。
こういう人がこの時代に出てきたことで、江戸幕府から明治政府へのスムーズな引継ぎが行われた。内戦を避けたことで諸外国の干渉も回避し、国家として独立を保ったまま新体制へ移行することができた。
結果論なのだとは思うが、慶喜の判断と行動は当時の日本国家にとって、少なくとも短期的には、メリットが大きく多大な貢献をしたと言えるのだろう。