すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~
【作者】
堀江貴文
【あらすじ・概要】
堀江氏による教育不要論。現在の学校教育は子供の「没頭力」にブレーキをかける害しかないとする。
国というファンタジーが機能していた時代は終わった。ネットの発達などで国の枠組みを超えることができるようになってきた。
自分が大切だと思うことに従い、Globalを目指してもLocalで生きても良いが
Nationを拠り所すべきではない。
世界的にも学校が今の形に落ち着いてきたのは、産業革命以降で、それは「国のために」、「命令に素直に従い、ある程度の作業はこなすことができる均一な人材」を大量に揃えることが必要だったから。
各個人がどのように生きたいかという思いは潰されるし、現代では均一な人材の集中投下の優位性が薄れてきている。
大きな欠点を無くし、従順で、我慢することを美徳とするような「道徳」は個人のためではなく、企業、軍隊、国家のためのものだとする。
また、知識を得るための場としても、ネットの普及で一斉教育の必要性はなくなってきている。必要な時に必要な知識を効率よく検索できる技術があれば十分で、その意味でも学校の必要性は薄れている。
好きなことに没頭する力は誰でも持っているし、それを極めれば新しいビジネスにつながるかもしれない。
アクセルを踏みながら、ブレーキも踏むような生き方はやめよう、という提言。
【感想・考察】
内容自体には共感できる部分が多い。
個人的には「国家というフィクション」の必要性が薄れているという見方に共感するし好きなことに没頭することで、新しい価値を生み出せるというのも間違いないだろう。
ただ堀江氏の文章には、他者への慮りが欠けていると感じる。
趨勢としては「国」の必要性が薄れているにしても「国」を大事に思っている人もいる。現在の教育には問題が多く効率が悪いかもしれないが、教育に真摯に取り組んでいる人に頭ごなしで否定的な意見を述べても、逆に届きにくい。
書籍の形になって前後の文脈まで読めば、まだ伝わるかもしれないが Twitter等で端的な発言をしているだけでは、届くべき人のところに届かないだろう。
発言が物議を醸すことによって問題意識を提起するという意味はあるかもしれないが本当に届ける必要がある人に届ける努力をしているとは思えない。
例えば「教育なんて不要だ」という発言は極端すぎて、教育にかかわる人たちは本を手に取ろうとも思わないだろう。
堀江氏の意見に共感できる層が読むだけでは、本質的な改革にはつながらないしできるとしても数世代かかっての意識変革となってしまうのではないか。
現状の教育がなされてきた背景を受け止めながら「こうすればより良くなる」という提言ができれば、より直接的な効果があるのだと思う。
マイルドで棘のない話でも、埋もれさせない発言力が堀江氏にはある。
堀江氏は「自分と感性の近い人とうまくやっていく」だけでなく、「周囲に敬意を払いながらも、良い方向に動くよう渦を巻いていく」こともできる人だろう、と期待している。