勉強するのは何のため?--僕らの「答え」のつくり方
【作者】
苫野一徳
【あらすじ・概要】
「勉強するのは何のため?」という問いから哲学的な思索まで掘り下げている。
本書のポイントは以下の二点に凝縮される。
勉強するのは「自由に生きるための力をつけるため」
学校という仕組みで教えるのは「自由を相互承認する感度をつけるため」
以下、個別の説明を要約する。
・問いの前提として「一般化のワナ」、「問いのマジック」にかからない
経験は人それぞれ異なるので全てのことを一般化して述べるのは雑すぎる。「勉強するのは良い大学に入り良い企業に就職するため」という答えはある状況にいるある人にとっては真実だが、全てに当てはまるケースではない。「勉強自体が楽しい」という人もいれば「尊敬する先生と一緒にいたい」という人もいて、それぞれが正解なのだろう。
また問い方として「勉強は役に立つか、立たないか」という二者択一で問われると「どちらかは正しい」というバイアスがかかってしまう。「積分」が実生活で役立つ人もいれば、学校を出てからは必要ない人もいる。最初は必要ないと思っていても状況に応じて必要になることもある。世の中の問いの大部分は「状況による」こととなる。
・それぞれの状況で異なる「問い」に、大多数の人がまあ同意できるような「納得解」を出そうとしてきたのが哲学の歴史
例えばニーチェはキリスト教の揺らぎで「生きる意味」の絶対解が失われた時代に、絶対的な「生きる意味」が必ずあるものとして求め続け得られないことで「ニヒリズム」に陥るとした。その上で一度ニヒリズムに徹しきり、そこから「生きていて良かった」と思える経験に出会うことで、「その人にとって」の「生きる意味」が見いだせるとしている。
・改めて「勉強をする意味」に絶対の解はないが、納得解として「自由になるため」を挙げる
自分が生きたいように自由に生きるために「知識」や「考える力」が必要。学びの本質は自由を得るための力をつけることと結論付ける。読み書き計算ができなければ不利な契約に縛られるかもしれないし、適切な判断力がないと誰かの判断に自分をゆだねることになってしまう。
・それぞれが自由を追求すると他者の自由を制限する。「自分が自由であるのと同様に他社も自由である権利を持つ」という「自由の相互承認」の感性を持つことで争いを回避すべきというのが、ここ数百年で現れた新しい考え方
学校での教育には問題点も多いが、それぞれの自由が衝突する経験を通じ、「自由の相互承認」の感度を育むという面で、様々な人が直接出会う場は有益だとする。
・とはいえ現行の学校制度には「教師のレベルが不均一」、「人間関係が固定されているのでいじめなどがあると逃げられない」、「一斉教育では生徒の理解度に応じた教育ができない」といった問題点もある。
それこそ「状況による」問題で絶対の解はないが、ネットワークを利用したレベル別教育や、プロジェクトごとに流動的なチームを組む組織体など改善の余地はあるとしている。
【感想・考察】
「勉強は自由のため」「学校は他人の自由を知るため」というのはシンプルだが完全に納得できる。私は「いろいろなことを知りたい」という好奇心が強いほうだが、その根底には「誰かに判断をゆだねず、自分の生き方は自分で決めたい」という思いが確実にある。知識もお金も「自由のため」だと考えてきた。
「世の中の問いの大半には絶対の正解はない」というのも共感できる。そのうえで諦めずに「大多数が納得する解を探求していく」ことが哲学の使命なのだろう。
平易な言葉で書かれているが考えさせらる本だった。