怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 アルボムッレ・スマナサーラ (
【作者】
アルボムッレ・スマナサーラ
【あらすじ・概要】
誰もが「怒りたい」と感じ怒っている。だが怒りによって、まずは自分自身を害し、周囲の幸せも奪ってしまう。怒ることは動物以下のふるまいであり、極めて愚かであると断ずる。
怒りには仏典などに使われているパーリ語ではいくつかの表現がある。
・Versa:いわゆる「怒り」全般
・Upanahi:妬み。長く持続する。
・Makkhi:人を軽視する。
・Palasi:他人と張り合う、他人に負けたくない気持ちをを外に向ける。
・Issuki:嫉妬、他人を認めたくない気持ちを内側に向ける。
・Macchari:物惜しみ、いわゆるケチ。分かち合って楽しむことを惜しむ。
・Dubbaca:反抗的で謙虚さがない。
・Kukkucca:後悔。反省ではなく、過去の失敗を思い返して悩む。
・Byapada:激怒、暴力につながるような強烈な怒り。
いずれにせよ「怒り」が世の中の破壊の根本原因だとする。
「怒り」の原因は「自分は正しい」というエゴへの執着で、誰しも完璧に離れず「自分は間違いだらけ」と認めることで「怒り」を手放すことができる。
「ののしられた」、「いじめられた」、「打ち負かされた」、「盗まれた」等、自分に対する攻撃に対し怒って反抗しようとするが、怒りでは問題は解決しない。
「怒り」を克服するためには、まず自分の中の「怒り」を客観的に認識すること。怒りを「我慢する」のは根本解決にならない。怒りを認識し、バカバカしさに気づくことで怒りは消える。「自分は偉い」というエゴを捨て、「自分はダメな人間」というエゴも捨てる。自分にできることを怠けずに精いっぱい行い、小さな成功をつなげていく。
怒る相手に対しては感情で応えるのではなく、相手の「問題」に着目し「智慧」で相手に勝つ。怒った相手の攻撃を「スポンジのように吸い込む」のではなく「水晶玉のようにはじく」ことをイメージする。
「笑う」ことで自分の怒りも消えるし、相手にも波及する。「楽しいことがあるから笑う」のは間違いで、常に「楽しいこと」を求め執着してしまう。順番としては「笑うから楽しくなる」というのが正しい。
【感想・考察】
「自我への執着を捨てる」ことで苦しみから離れることができる説くのは理解できる。智慧で怒りを克服することに達成感を感じるということも同意できる。
自分自身、相手に怒りを表すことはまれだが、妬みや嫉妬のような内に向かう「怒り」は強く持っていて、そこから離れることは難しい。そういう感情は全く建設的ではなく、意欲を高めるドライバにもなっていない。
「自己を高めるために、自己への執着を捨てる」という言葉自体に矛盾を含んではいる気はするが、それが一番強い戦い方なのかもしれない。