毎日一冊! Kennie の読書日記

面白い本をガンガン紹介していきます!!

実存と構造

実存主義、構造主義の本だと思って読んだのですが

どちらかというと 文学評論 寄りの内容でした。

 

20世紀半ば以降の文学に実存主義と構造主義は

どのように組み込まれてきたかを解説しています。

 

カフカ、カミュ、やサルトルなどの「実存」に迫る作品や

神話などに「構造」を見出したレヴィ・ストロース、

「構造」を文学に組み込んだガルシア・マルケスや

日本での大江健三郎、中上健次などの作品を紹介しています。

 

 

【タイトル】

実存と構造

 

【作者】

三田誠広

 

【あらすじ・概要】

 

近世以前の欧州では「神の思し召し」により

住む場所も、職業も、結婚も 固定され自由はなかったが

その分、思い悩むことはなかった。

当時の文学は荒唐無稽でロマンチックなものだった。

 

19世紀の商工業発達により都市が発展し

人々が自由に生きるようになると

写実主義、自然主義による近代小説が生まれた。

 

20世紀にはいると「実存の文学」が書かれるようになる。

 

カフカ「変身」

帰属するものがなく孤独に生きる主人公が

ある日虫になってしまう。

家族にも職場の人にも「虫けら」扱いされ

家族に迷惑をかけながら、最後はひっそり死んでいく。

 

カフカはドイツ生まれのユダヤ人を両親に持ち

チェコで育った。

ドイツにもチェコにも帰属意識を持てない

カフカは孤立感を持っていきていた。

どこにも帰属しない「虫けら」のような生き方を描いた。

単独者として世界と生身で対峙するのは

「実存主義」的な生き方だと言える。

 

近代以降、神による抑圧が薄れた社会で

カントやヘーゲルは「人倫」という考えを持ち出した。

その頃には「国家」という観念が生まれ

神による抑圧の代わりに国家による抑圧が人民を助けたが

二つの世界大戦を通し、

「個人が国家を愛してしまうと、ファシズムにつながる」

ことが分かり、国家への失望が広がった。

 

カミュ「異邦人」

「今日、ママンが死んだ。昨日だったかもしれない」

という主人公は、親に対する感情が非常に薄い。

知り合いのヤクザとアラブ人が口論するのを聞いていた

主人公は「太陽がまぶしかったから」

アラブ人を撃ち殺してしまった。

 

この主人公も、社会規範や共同体に帰属せず

孤立した実存として世界と向き合っている。

個人としてじかに世界に向き合う様子は

周囲から見れば「不条理」だ。

 

サルトル「嘔吐」

見慣れた風景など、外界のすべてに違和感を感じる。

抽象的な意味を剥がされたマロニエの根を見て、

その直接的なグロテスクさに嘔吐してしまう。

 

自我をとことん突き詰め、世界と直接に対峙する

ことは「吐き気」を催すような気分の悪さだとみる。

 

レヴィ・ストロース

社会学者のレヴィ・ストロースは、

社会における「家族」につい手の取り決めや

神話などに「構造」を発見した。

 

多くの社会で「平行いとこ婚」は避けられ

「交差いとこ婚」は推奨されるのは

社会を維持するための構造だとし、

世界中の神話で同じようなモチーフが

用いられるのも構造だとした。

(平行いとこは父方男兄弟、母方女姉妹のいとこ、

交差いとこは父方女兄弟、母方男兄弟のいとこ。

遺伝子的な距離は同じだが、家同士の

メンバー交換という面では意味合いが異なる)

 

ガルシア・マルケス「百年の孤独」

ある村の100年間の年代記が記された

古文書を読み解いていくという「枠物語」。

最後に古文書を読み解いている人物が

その物語の末裔であることが明かされ

封じ込めた神話的世界が「枠物語」の

枠に浸食していく。

(「枠物語」は「千夜一夜物語」など

語り手が外の話をするタイプの物語)

 

戦前の日本文学は私小説とプロレタリア文学の

二つの潮流に分かれていた。

私小説は、自分の日常生活から人間存在の

テーマを捕らえ語り、

プロレタリア文学は、貧しく虐げられた

労働者の暮らしをリアルに描き

社会改革の必要性を訴えた。

 

戦後、貧しさが広がり、

私小説がそのまま社会改革を訴える社会小説に

なるという状況がしばらく続いたことで

文学全般が実存主義的な要素を抱えることとなった。 

 

大江健三郎「万延元年のフットボール」

アメリカ帰りの弟がフットボールを通して

若者を集め、反体制運動をしていた。

兄である主人公は行動できない自分を情けなく思う。

 

兄弟が住む村には、万延元年の一揆の伝説が伝わっており

一揆を指導した庄屋の弟は英雄として語り継がれていた。

ところが古文書を調べていた兄は、

英雄とされている指導者が、実は闘争から途中で

逃げ出した卑怯者だったことを知る。

 

万延元年の古文書と出会うことで主人公の立ち位置が

相対化され、物語が構造化されたと言える。

 

世界と対峙する「実存」の重さは人を袋小路に追い込むが

自分の問題を神話的な構造に埋め込んでしまえば

その苦しみは繰り返されてきた物語で

「自分は英雄でもなければ、特別に悲惨な人間でもない」と

相対化することができる。

 

中上健次

中上健次本人も複雑な家庭環境に生まれ、

異父兄弟からの妬みや実父への恨み、

自殺した長兄への申し訳なさなどを抱え

思い悩んでいた。

 

「岬」「枯木灘」と続くシリーズで

父に捨てられた子供であった主人公は

やがて子供を捨てた父となり

神話的構造の連鎖の中に埋め込まれていく。

 

 

【感想・考察】

主旨をざっくりまとめてしまうと

「自我を突き詰め、世界と直に向き合う実存は

重く苦しく吐き気を催すようなものだ。

実存は個人のものだが

パターン化し、構造の中に組み込めば

苦しいのは自分だけではない、という

癒しを得ることができる」

ということになるのだろうか。

 

一方で構造の中に組み込まれた自我が

生々しさを維持するためにも「実存」的な

視点を持つことも必要なのだろう。

 

普段「実存」「構造」を意識することは無くても、

ごく個人的なエピソードに入り込んで共感したり

人の話から自分の思いを相対化したりするのは

普通にあることだが、

本を読むときや人の話を聞くときに

意識してみると面白いのかもしれない。

 

 

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